ボクとワタシの「幸福論」 第4話
本コラムも収載された吉本ばななさんのエッセイ集『人生の旅をゆく 3』が発売されました。
「幸せだから笑うのではない。むしろ笑うから幸せなのだ」
こんな味わい深い言葉を新聞にプロポ(短めのコラム)として、毎日のように書き残した哲学者アラン。
そのプロポから幸福について書いた言葉だけを集めたものが、『幸福論』です。
「幸せ」をテーマに、さまざまな分野に取り組む人が、その人の『幸福論』を語ってくれる連載です。
プロポ27 「楡の木」より
「運命とは定めなきものだ。指先を動かしただけでも新しい世界ができあがる。どんな小さな努力でも限りない結果を生ずる。」角川ソフィア文庫『幸福論』より
手を動かす
作家 吉本ばなな
まことにつまらなくて生活くさい比喩で申し訳ないのだけれど、濡れた洗濯物とはとても重いものなのだ。
洗濯機いっぱいの洗濯物をたくさん時間をかけて洗い、取り出すとき。
こんなふうに濡れて絡まって重くなっている、大量の、全く形が違う布たちを全部干すことができるはずなんてないとさえ思う。
いつかロボットが干してたたんでくれる時代が来るのだろうかと夢想したり。
お手伝いさんが全部やってくれたら楽だろうか、そうしたらその空いた時間にいったい何ができるのだろうか、と考えてみたり。
洗濯物を干すのがうまい人に、言いしれないコンプレックスを感じたり。
そう、もちろん濡れた洗濯物を目の前にしてそんなことをいくら考えていても、現実は何も変わらない。
空気は全く動かない。ただ頭の中が重くなっていくだけだ。
なので端から一枚ずつ、ただ分類して、ひたすらに干していく。叩いて、伸ばして、整えて。ただただ干す。
するといつのまにか奇跡のように洗濯物の山は減っている。気づいたら終わっている。ひとえに自分が手を動かしたからである。
ほとんどのことはそんなふうにできていると思う。
何もしないで文句を言うのは簡単だ。動かないで立ち止まって悩んでいるのも。かかる時間を計算してそのあまりの長さに途方にくれるのも同じこと。
一つ一つやるしかない。闇雲に始めるのではない。深呼吸をして、よし、仕方ない、やるしかないと落ち着いて、大体のヴィジョンだけをしっかり見据えて、もう何も考えないことが肝心だ。あとは手を動かすのみ。
例えば子どもを育てるということ。
それは単なるくりかえしで時間が過ぎていくということだ。乳を飲ませ、おしめを替え、お風呂に入れ、寝かしつけて、また乳をやり、おしめを替え…毎日がデジャビュのように思えるときがただ過ぎていく。
それは無為なことなのか? 絶対に違う。親が費やしたその時間があったからこそ、私たちは今こうしてここにいることができている。
いかなる人もその過程を経ずには決して大人になれない。
私は小説を書く。登場人物たちは私の頭の中だけにいる。一行ずつ、こつこつと。削ったり足したり。小説が完成すればその人たちは実在の人物みたいに読者に会いに行く。いつのまにか友だちとして読者の人生に寄り添う。たった一行の積み重ねがそんな現実になる。
きっと同じようなことだ。手元にあるたった一枚の書類から、一本の電話から、一つの食材から。こつこつと積み重ねることで、いつのまにか大きな何かが生まれている。はじめは小さく頼りなく、こんなこと始めなければよかった、めども立たないし、誰にも気づいてもらえない…そう思うだろう。
でもやがてそれは自分だけがこの世に生み出した壮大な景色になる。これまでこの世になかったものが、自分のこの小さな手によって初めて創られる。
人生に実るそんな果実、それを幸福と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。
公開日:2017年03月21日
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吉本 ばなな
小説家 1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30カ国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞<Under35>、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。近著に『吹上奇譚 第一話 ミミとこだち』(幻冬舎)『切なくそして幸せな、タピオカの夢』(幻冬舎)がある。noteにてメルマガ「どくだみちゃん と ふしばな」を配信中。『すべての始まり どくだみちゃんとふしばな1』『忘れたふり どくだみちゃんとふしばな2』(幻冬舎)として書籍化されている。『お別れの色 どくだみちゃんとふしばな3』が2018年11月23日に発売される。(プロフィール写真撮影:Fumiya Sawa)